広島の旅(平和記念公園と宮島)

  JR山陽新幹線で広島を訪れました。広島市平和記念公園と平和記念資料館の見学です。目的地は駅から概ね1.5km位の所有ります。戦後76年原爆投下で復興した大都市広島は今は美しく調和の取れた景観に変貌を遂げています。今回、原爆投下前の街並みや戦前の様子はどうであったかを見学する事は大切なことと思いました。私は若い頃から原爆の恐ろしさや悲惨さを見るのがとても怖かったし嫌だったのが本音です。
しかしながら現在の広島市内の様子は原爆投下された町とは想像出来ないほど活気に満ちあふれ人々が行き交う町に蘇っています。この原爆ドーム平和記念公園などの遺跡さえなければ。

平和記念公園から原爆ドーム

f:id:visutahimesima:20220226140148p:plain

   平和記念公園からあの原爆ドームの跡が見えます。太田川元安川 に挟まれた公園は歴史から見れば河川の三角州でしょう。
 昭和20年8月6日8時9分アメリカ軍機エノラ・ゲイ号は広島市上空へと飛来した。高度は31,600フィート(9,632メートル)この高さから原子爆弾を投下した。 連日の空襲警報に日本中は麻痺していたのか迎撃機も無くやり過ごそうとしていたのであろう。もししっかりした対レーダがあり四国上空で迎撃していたならこの惨事は無かったかも知れない。またB29の高度まで上昇出来迎撃できる戦闘機ももう無かったかも知れませんが。

原爆死没者慰霊碑

石碑の書「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから 」 

f:id:visutahimesima:20220226140057p:plain

そして原爆ドーム (戦中から原爆投下時までは広島県産業奨励館であった)、アメリカ軍のB-29爆撃機エノラ・ゲイ」が、建物の西隣に位置する相生橋を投下目標として原子爆弾リトルボーイ」を投下した。投下43秒後、爆弾は建物の東150メートル・上空約600メートルの地点(現・島内科医院付近)で炸裂した。
 原爆投下時に建物内で勤務していた内務省職員ら約30名は、爆発にともなう大量放射線被曝や熱線・爆風により全員即死した。なお、前夜宿直にあたっていた県地方木材会社の4名のうち、1名は原爆投下直前の8時前後に自転車で帰宅し自宅前で被爆し負傷したものの、原爆投下当日に産業奨励館に勤務していた人物の中で唯一の生存者となった。 

原爆ドームより慰霊碑に平和記念資料館に真直線へと続く

f:id:visutahimesima:20220226140323p:plain



その後しばらくはまだ窓枠などが炎上せずに残っていたものの、やがて可燃物に火がつき建物は全焼して、ついにレンガや鉄骨などを残すだけとなった。 

  その後調査で原爆投下後の入市被爆者も含め56万人が被爆したとされる。本当に悲惨な出来事である。我々は戦後戦争を知らない世代である。だからといって無視は出来ない。
 戦争を知らない世代だとしても戦争の悲惨さを風化させることがあってはならないし、後世に語り継ぐべきであろう。

昭和天皇夫妻は1971年(昭和46年)4月16日に初めて原爆慰霊碑に参拝した。天皇被爆者に対し「昭和22年に原爆を受けた当地を訪ね、親しく被災者に面接し、同情に耐えず、世界平和の続く事を思いましたが、今なお療養を続けている多数の市民のある事を聞き、胸のせまる思いがします。今後は互いに明るい気持ちを持って療養を続け、すみやかに元気な姿になる事を希望してやみません」と述べた。

戦後大きく大都市に復興した広島 

 原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)の周囲を散策しました。ご覧の通り昭和初期の建物と公園となった現在の遺跡はイタリアポンペイを思わせます。建物内部には破壊された瓦礫がそのまま保存されています。  

f:id:visutahimesima:20220226141127p:plain

 建物上空600mで原子爆弾が炸裂したのですがよく残っていたと思いました。それは、ドーム型屋根に守られていたことと爆風が四方に抜けていたので本体だけは残ったそうです。

 今はあのアニメ「天空の城ラピュタ」の風景のようです。このまま人類が滅んで人の手が入らなければあのような状態だったに違いない。人類の文明が自らの世界を滅ぼして一体誰が得をするのでしょう。

f:id:visutahimesima:20220226141347p:plain

平和記念公園は川に挟まれています。その昔は物流拠点の海運業や倉庫業で栄えていたでしょう。河岸に停泊している遊覧船で市内を眺めるのもまた趣きもあります。暖かな日を浴びて川岸沿道にはちょっとしたお土産屋さんもありました。蜜柑やオレンジなどもありました。

f:id:visutahimesima:20220226141420p:plain

広島市内は、河川の扇状地なのでしょう。わりと平坦で高低差も小さいと思われました。多くはビルの建物が多く、マンションが多く見られました。街は縦横無尽の道路で仕切られ、多くの市内電車が多く交錯している。市電で行けないところは無いそうです。料金も安く交通の便が本当に良い所なんですね。

f:id:visutahimesima:20220226141944p:plain

 広島に来たら食べたいもが有りました。それは広島のお好み焼き(鉄板焼き)でしたが散策するうちに誤りに気付きました。至る所にあなご飯のお店がありました。東三河や浜松ならウナギの蒲焼きですが、広島ではこの通り穴子の蒲焼きなんです。        実はこれに広島のお好み焼きもセットされたお昼ご飯煮物やデザートもついていまして、とってもうまっかったです。チャンスあれば又行きたいところです。このお店岸田総理も帰郷の際よく訪れるそうです。

厳島神社

 その後日本三景世界遺産の島、宮島に行きました。宮島はずいぶん昔行ったことがありましたが何度行っても良いです。多くの寺社、伝説の史跡、小路を歩くと趣き深い町並みが有ります。名産のもみじ饅頭は今ではあちらこちらで見かけますが、やはり安芸の宮島が本家なのでしょう。また放し飼いの鹿(現在は野生動物なのだそうです)がお出迎えてくれます。

 JR山陽本線宮島口駅から徒歩数分の所にフェリーの乗り場が有ります。ここから30分程度で宮島に渡ります。このフェリーは前後が無く旋回しなくても良いように設計されています。

宮島桟橋へのフェリー

f:id:visutahimesima:20220226142253p:plain

 晴天と穏やかな海に観光日和となりました。大きく言っても瀬戸内海はいくつ島があるのだろう?昔その中でも潮流が激しく渡ることが困難な島もあるだろうに、何故のこんな場所に誰がこんなきらびやかな御殿を造営したのだろう?

 私も瀬戸内の風景には憧れていましたが、時の都からかなり遠くの僻地によくもまあ作った物だと思いつつ宮島の桟橋に到着です。

景勝地の碑

f:id:visutahimesima:20220226144338p:plain

 陽も少し傾き冬場なので余り観光の時間も有りません。厳島神社の入場チケットにパンフレットがありましたので添付します

厳島神社の見取り図

f:id:visutahimesima:20220226144455p:plain

 平安時代平清盛が篤く信仰し現在に残る社殿を造営しました。近年台風や大潮などで大きな被害もありましたがその都度修復しました。又海の中にある大鳥居も修繕工事が行われています。大潮などの干潮時には大鳥居まで歩けるそうですが潮が満ちた方が優雅ですね。図によりますとまず客神社(まろうどじんじゃ)本殿から厳島神社本殿へと渡り廊下に続き正面に高舞台があります。ここでは現在でも雅楽舞楽が行われるとのこと。一度は見たいですが年行司があっても一般にはなかなか見られません。満潮が早朝でしたので早起きして撮りました。

満潮時の社殿

 

f:id:visutahimesima:20220226144556p:plain

五重塔(高さは27m有るそうです)

f:id:visutahimesima:20220226144616p:plain