呉へ

 呉は地形的に天然の良港と言われ、古くは村上水軍の一派が根城にしており、明治時代以降は、帝国海軍・海上自衛隊の拠点となっています。そこには大和ミュージアム・てつのくじら館など海軍・海上自衛隊に関する博物館があります。呉市日本海軍が誇る軍需工場や港が有ります。また江田島市と並んで海軍の最重要基地でありました。

 

 戦前は呉海軍工廠において世界最大の戦艦でもある大和などが建造され、東洋一の軍港・日本一の工廠として知られていました。このため、太平洋戦争末期には呉軍港空襲において米軍の空襲を受け、大きな損害を受けています。 現在は呉の歴史と造船・製鋼を初めとした科学技術を残し、日本の歴史と平和の大切さを認識して頂くとともに、子供達に科学技術の素晴らしさを理解し教育や文化に大きく寄与する展示館があります。

大和ミュージアムの駐車場からの風景とてつのくじら館

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大和ミュージアム玄関と呉の夜景

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 大和ミュージアムでは全長26.3mもある1/10実物大を始め第2次世界大戦当時の軍事兵器、設計図や写真等が展示されている。戦争末期、沖縄方面へ出撃したがアメリカ軍の機動部隊の猛攻撃を受け、坊ノ岬沖で撃沈された。

戦艦大和の模型

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 私達、戦後の昭和20年代の生まれですが、父親が出兵し敗戦となった事を聞きまた子供ながら友達の親が海軍の大和の乗組員だったことなどからまだ世間は一般に大和魂を教えられた時代でした。でも大和は何故最後に出兵したのかは分かりませんでした。何故負けたのかもです。

 戦前日本はの教育は神国であり軍国主義一徹で、規律が守られていました。小学校の運動会では軍艦マーチの行進曲で行進した記憶があります。それが正しいのだとまだ文部省も教育していたのですから。

 大和ミュージアムの展示場は4階建です。1階部分に大和ひろばがあり1/10大の大和の模型が有ります。1~2階部分はスロープになっており2階には本物の零戦や海底から引き揚げられた人間魚雷「回天」などが有ります。

2人乗り人間魚雷と零戦

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一人乗り人間魚雷「回天」と本物の魚雷(爆薬は抜いて有ります)

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零戦に搭載された機銃と大砲の砲弾(白 高さ1.6m太さ46cm)

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戦艦に装備されていた大砲(砲弾の装填部)  呉名物「海軍カレー

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海軍さんは陸軍と違い食事は良かったそうである。特にカレーが出ると水兵さんは喜んだそうである。元々インドのカリーとはほど遠いかも知れませんが更新料効いた料理は日本風の方が良いでしょう。海軍では実は月月火水木金金で曜日が分からなくなってしまうので金曜日の夕食に出て曜日の確認にもなったそうである。

 

ある意味合いから兵器の開発は科学技術の発展に繋がります。しかし祖国のため、戦うと言う本来の意味合いから超脱して決して兵器を侵略などに使用してはならない。



 

尾道の旅

 瀬戸内に来たら尾道に寄らねばと思いつつ、尾道に来たら千光寺山の眺めを見なくてはと思い行きました。しかし尾道とは何とお寺の多いこと何と100位有るそうです。千光寺山が有名で風光明媚と言うことで登りました。ここから眺める風景は素晴らしいです。好転の行楽日和に恵まれて坂の上から見る町並みと対岸側向島尾道水道の景色はとても良いです。「坂の街」「文学の街」「映画の街」として知られる。文学では林芙美子志賀直哉などが居を構え、尾道を舞台とした作品を発表した。映画では小津安二郎監督の『東京物語』が尾道で撮影され、大林宣彦監督の『転校生』や特に私たちの世代だと原田知世さんの『時をかける少女』は思い出深い作品だ。

    尾道千光寺山

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千光寺から少し下った所に天寧寺の三重の塔が有る

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千光寺から望む尾道水道向島との水道は狭く流れも早いが多くの船舶が行き交う

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  平山郁夫も愛した尾道 

シルクロード展で有名な画家の平山郁夫尾道の生まれだが、勤労動員されていた広島市内陸軍兵器補給廠で広島市への原子爆弾投下により被災しその後、古代インドに発生した仏教をアジアの果ての島国にまで伝えた仏教東漸の道と文化の西と東を結んだシルクロードへの憧憬につながっていった。

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 しまなみ海道西瀬戸自動車道)は、本州四国連絡道路の3ルートのうち、西に位置する尾道今治ルートを通る高速道路である。広島県尾道をスタートに向島因島など瀬戸内にの五島を経て今治市に繋がっている。橋梁も吊り橋が多く11橋有るそうです。

戦国時代には、この海峡を通航するには村上水軍の通行手形が必要でありました。海賊との伝えも有るそうですが、実際は海域を守る水先案内人であったそうです。

尾道の町中

バス停の駐車場にあった市内案内ですがよくまあこんなに寺院があるものだと関心しました。「古寺めぐりコース」という市内中心部の寺院を散策するための石畳で舗装された道があり、持光寺、天寧寺、千光寺、大山寺、西國寺、浄土寺、海龍寺は「尾道七佛めぐり」を構成している

 市内に100近くある寺院

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坂が多くまた幅の狭い道を高校生や老人が行き交っていました。町並みは古い土塀や民家が密集しています。そう言えば映画のなかでも時折火事がありましたね。

 

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 千光寺を下っていくと猫の細道の案内板がありました。猫が沢山いるのか細い道なのか?

猫の細道

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私は旅に出ると鉄道線路の風景が好きである。今回も撮ってみた。昔ジェリー藤尾がよく歌っていた「遠くに行きたい」が脳裏をよぎるのである。赤さびたレールの向こうに何があるのか知りたい。

 JR山陽本線の福山方面           JR山陽本線の福山方面

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 ガタゴトと音を立てて行く何の変哲も無い列車に、何故か心が安まる。学生時代アパートの近くに線路があったせいかも知れない。



 

 

広島の旅(平和記念公園と宮島)

  JR山陽新幹線で広島を訪れました。広島市平和記念公園と平和記念資料館の見学です。目的地は駅から概ね1.5km位の所有ります。戦後76年原爆投下で復興した大都市広島は今は美しく調和の取れた景観に変貌を遂げています。今回、原爆投下前の街並みや戦前の様子はどうであったかを見学する事は大切なことと思いました。私は若い頃から原爆の恐ろしさや悲惨さを見るのがとても怖かったし嫌だったのが本音です。
しかしながら現在の広島市内の様子は原爆投下された町とは想像出来ないほど活気に満ちあふれ人々が行き交う町に蘇っています。この原爆ドーム平和記念公園などの遺跡さえなければ。

平和記念公園から原爆ドーム

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   平和記念公園からあの原爆ドームの跡が見えます。太田川元安川 に挟まれた公園は歴史から見れば河川の三角州でしょう。
 昭和20年8月6日8時9分アメリカ軍機エノラ・ゲイ号は広島市上空へと飛来した。高度は31,600フィート(9,632メートル)この高さから原子爆弾を投下した。 連日の空襲警報に日本中は麻痺していたのか迎撃機も無くやり過ごそうとしていたのであろう。もししっかりした対レーダがあり四国上空で迎撃していたならこの惨事は無かったかも知れない。またB29の高度まで上昇出来迎撃できる戦闘機ももう無かったかも知れませんが。

原爆死没者慰霊碑

石碑の書「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから 」 

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そして原爆ドーム (戦中から原爆投下時までは広島県産業奨励館であった)、アメリカ軍のB-29爆撃機エノラ・ゲイ」が、建物の西隣に位置する相生橋を投下目標として原子爆弾リトルボーイ」を投下した。投下43秒後、爆弾は建物の東150メートル・上空約600メートルの地点(現・島内科医院付近)で炸裂した。
 原爆投下時に建物内で勤務していた内務省職員ら約30名は、爆発にともなう大量放射線被曝や熱線・爆風により全員即死した。なお、前夜宿直にあたっていた県地方木材会社の4名のうち、1名は原爆投下直前の8時前後に自転車で帰宅し自宅前で被爆し負傷したものの、原爆投下当日に産業奨励館に勤務していた人物の中で唯一の生存者となった。 

原爆ドームより慰霊碑に平和記念資料館に真直線へと続く

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その後しばらくはまだ窓枠などが炎上せずに残っていたものの、やがて可燃物に火がつき建物は全焼して、ついにレンガや鉄骨などを残すだけとなった。 

  その後調査で原爆投下後の入市被爆者も含め56万人が被爆したとされる。本当に悲惨な出来事である。我々は戦後戦争を知らない世代である。だからといって無視は出来ない。
 戦争を知らない世代だとしても戦争の悲惨さを風化させることがあってはならないし、後世に語り継ぐべきであろう。

昭和天皇夫妻は1971年(昭和46年)4月16日に初めて原爆慰霊碑に参拝した。天皇被爆者に対し「昭和22年に原爆を受けた当地を訪ね、親しく被災者に面接し、同情に耐えず、世界平和の続く事を思いましたが、今なお療養を続けている多数の市民のある事を聞き、胸のせまる思いがします。今後は互いに明るい気持ちを持って療養を続け、すみやかに元気な姿になる事を希望してやみません」と述べた。

戦後大きく大都市に復興した広島 

 原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)の周囲を散策しました。ご覧の通り昭和初期の建物と公園となった現在の遺跡はイタリアポンペイを思わせます。建物内部には破壊された瓦礫がそのまま保存されています。  

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 建物上空600mで原子爆弾が炸裂したのですがよく残っていたと思いました。それは、ドーム型屋根に守られていたことと爆風が四方に抜けていたので本体だけは残ったそうです。

 今はあのアニメ「天空の城ラピュタ」の風景のようです。このまま人類が滅んで人の手が入らなければあのような状態だったに違いない。人類の文明が自らの世界を滅ぼして一体誰が得をするのでしょう。

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平和記念公園は川に挟まれています。その昔は物流拠点の海運業や倉庫業で栄えていたでしょう。河岸に停泊している遊覧船で市内を眺めるのもまた趣きもあります。暖かな日を浴びて川岸沿道にはちょっとしたお土産屋さんもありました。蜜柑やオレンジなどもありました。

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広島市内は、河川の扇状地なのでしょう。わりと平坦で高低差も小さいと思われました。多くはビルの建物が多く、マンションが多く見られました。街は縦横無尽の道路で仕切られ、多くの市内電車が多く交錯している。市電で行けないところは無いそうです。料金も安く交通の便が本当に良い所なんですね。

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 広島に来たら食べたいもが有りました。それは広島のお好み焼き(鉄板焼き)でしたが散策するうちに誤りに気付きました。至る所にあなご飯のお店がありました。東三河や浜松ならウナギの蒲焼きですが、広島ではこの通り穴子の蒲焼きなんです。        実はこれに広島のお好み焼きもセットされたお昼ご飯煮物やデザートもついていまして、とってもうまっかったです。チャンスあれば又行きたいところです。このお店岸田総理も帰郷の際よく訪れるそうです。

厳島神社

 その後日本三景世界遺産の島、宮島に行きました。宮島はずいぶん昔行ったことがありましたが何度行っても良いです。多くの寺社、伝説の史跡、小路を歩くと趣き深い町並みが有ります。名産のもみじ饅頭は今ではあちらこちらで見かけますが、やはり安芸の宮島が本家なのでしょう。また放し飼いの鹿(現在は野生動物なのだそうです)がお出迎えてくれます。

 JR山陽本線宮島口駅から徒歩数分の所にフェリーの乗り場が有ります。ここから30分程度で宮島に渡ります。このフェリーは前後が無く旋回しなくても良いように設計されています。

宮島桟橋へのフェリー

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 晴天と穏やかな海に観光日和となりました。大きく言っても瀬戸内海はいくつ島があるのだろう?昔その中でも潮流が激しく渡ることが困難な島もあるだろうに、何故のこんな場所に誰がこんなきらびやかな御殿を造営したのだろう?

 私も瀬戸内の風景には憧れていましたが、時の都からかなり遠くの僻地によくもまあ作った物だと思いつつ宮島の桟橋に到着です。

景勝地の碑

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 陽も少し傾き冬場なので余り観光の時間も有りません。厳島神社の入場チケットにパンフレットがありましたので添付します

厳島神社の見取り図

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 平安時代平清盛が篤く信仰し現在に残る社殿を造営しました。近年台風や大潮などで大きな被害もありましたがその都度修復しました。又海の中にある大鳥居も修繕工事が行われています。大潮などの干潮時には大鳥居まで歩けるそうですが潮が満ちた方が優雅ですね。図によりますとまず客神社(まろうどじんじゃ)本殿から厳島神社本殿へと渡り廊下に続き正面に高舞台があります。ここでは現在でも雅楽舞楽が行われるとのこと。一度は見たいですが年行司があっても一般にはなかなか見られません。満潮が早朝でしたので早起きして撮りました。

満潮時の社殿

 

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五重塔(高さは27m有るそうです)

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水郷の町佐原と伊能忠敬を訪れて

JR成田線佐原駅」が有ります。時代を感じさせる駅ですね。「お江戸みたけりゃ佐原へござれと」に誘われて佐原を訪れました。利根川支流の小野川沿いを散策します。ここは水郷の町 江戸時代の街並みがあります。

JR成田線佐原駅

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佐原駅から徒歩10分駅前をほぼ南に行けば諏訪神社が有ります。

諏訪神社

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佐原公園の伊能忠敬

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 伊能忠敬は、延享2(1745)年、今の千葉県九十九里町で生まれましたが、17歳で佐原の伊能家の跡継ぎとなり、以降30年余りこの町で暮らしました。
そして、50歳になってから江戸へ出て西洋流の天文学を学び、55歳のときから、幕府の命によって、何回も測量旅行におもむき、17年もかかって、全国の海岸線を測量して精密な地図をつくりました。
忠敬は測量旅行のたびごとに、その地方の地図をつくり、最後にその総まとめとして日本全図をつくりはじめました。文化15(1818)年、江戸において73歳で亡くなりましたが、日本全図は、弟子たちの協力によってその3年後に完成しました。
日本の国土の正確な形は、忠敬によって、初めて明らかにされました。
この銅像は、忠敬測量中の姿で、大正8(1919)年に建てられました。
台石の文字は、漢学者塩谷時敏が書いたもので、「仰いでは斗象を眼、俯しては山川を書く」とあり、意味は「天体の観測を行って、りっぱな地図をつくった」ということで、忠敬の功績を讃えています。

それから佐原の町へと入りました。川岸には木橋や柳の枝が水面に揺れてとても情緒があります。町の中を幅の狭い道路が横断していて昔ながらの商家町で駄菓子屋や造り酒屋、レトロ調の建物が並んでいます。

                                                   旧三菱銀行佐原支店

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  三菱銀行佐原旧支店の建物で明治13年に建てられた西洋建築です。今では隣の佐原町町並み交流館となっています。

伊能忠敬旧家

伊能家は、代々名主を務める家柄で佐原でも最も有力な商人でした。
忠敬は、17歳で伊能家10代目当主として婿養子で迎えられます。家業は主に酒造業を営んでおり、当時の屋敷絵図には、酒蔵がいくつも並び盛んであったことがわかります。
 その後、家督を譲り隠居して勘解由と名乗り50歳で江戸に出て、55歳(寛政12年、1800年)から71歳(文化13年、1816年)まで10回にわたり測量を行いました。その結果完成した地図は、極めて精度の高いもので、ヨーロッパにおいて高く評価され、明治以降国内の基本図の一翼を担いました。

伊能家の門と長屋 造り酒屋の面影を残す

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屋敷跡と庭に残る梅の古木

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庭にある碑の家訓

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旧宅内にある家訓書碑。
第一 仮にも偽をせず、孝悌忠信 にして正直なるべし
第二 身の上の人ハ勿論、身下の人 にても教訓意見あらば急度相用堅く守べし
第三 篤敬謙譲にて言語進退を寛裕ニ諸事謙り敬ミ、少も人と争論など成べからず                    意味合い              
第一・少しも嘘をつかず、正直にしなさい 
第二・どんな人のいうことでも役にたつことや、正しい意見であったら必ず用いて守りなさい 
第三・言葉と行動を緩やかにして,万事へりくだって、謹んで、少しの争論もしてはならない

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伊能忠敬像と記念碑「この一歩から」

伊能忠敬記念館に残された測量術

旧家屋敷に残されたひな壇や象限儀

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小野川を挟んで伊能家正面にある記念館

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象限儀:この器械は月や星座などにも天文の測量に用いられた。

象限儀のモニュメントと日本地図の編纂資料

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左上の象限儀やを用いて富士山の高さや位置を設定した。当時西洋の測量学を用いて三角測量なども取り入れられている

測量の方法や利用
 測量は、田畑の面積を計算する方法として古代から行われてきました。また、都市造りや建築、あるいは天体観測や暦作りに欠かせない技術でもありました。土地の測量は数学の一分野ですが江戸時代西洋列国から日本地図をどうしても手に入れたいものでした。江戸時代シーボルトなども国禁である日本地図などを日本国外に持ち出そうとして発覚した事件。 役人や門人らが多数処刑された。 その後幕末から明治時代西洋文化に遅れを取り戻そうと政府は更に精度の高い測量学を求め陸軍省海軍省内務省など競って測量を開始しました。 当時は軍事目的の一端として不可欠でしたが                           現在は宇宙航空学も進み人工衛星から電波による測量も一般的になり、航空学、船舶、自動車、電子器具類、農業用機械にまで発達しています。

水資源を訪れて:牟呂松原頭首工

   豊川用水はるか下流の渥美の灌漑用水は農家の生命となった。かつて豊川用水の無い時代、豊富な水は農家にとって作物を耕作する上で貴重で有る。それが故に諍いの元にもなった。家屋敷や畑の中に井戸を掘って地下水をくみ上げて生活源としていた。昔は田原や赤羽根、渥美地区では雨水を瓶にためて飲料水や生活の水となって凌ぐ事もざらであった。夏干魃になると農作物は全滅の危機にさらされる。家畜さえも養えず離散するのも現実にあった。今日そうしたことは忘れ去られて便利な時代である。今日は、史実を踏まえて新城市の一鍬田にある豊川用水の井堰の牟呂松原頭首工を訪れてみました。

 牟呂松原用水は、豊川の牟呂松原頭首工を取水口として、豊川右岸の水田地帯を潤し、日本有数の一大農業地帯、東三河地域発展の一翼を担っているが、ここに至る道は「暴れ川」豊川との度重なる闘いがあった。

 

 松原用水の起源は1567年(永禄10年)に遡る。確たる水源がなく、干害が頻発していた豊川右岸地域を拓くため、橋尾村(現豊川市橋尾町)に堰を造ったことが松原用水の発端である。その後、1691年(元禄4年)の大洪水で井堰が破壊されたため、位置を上流部の日下部村(現豊川市豊津町)に移し「日下部井堰」築かれた。この堰は、河道に対し直角に築く「一文字堰」であり、舟通しを兼ねた放流施設を設けることで洪水時の流失を防ぎ、併せて土砂堆積による機能低下を回避できた。長寿命化と利便性を兼ね備えた画期的な堰であり、その後およそ180年にわたり利用され続けた。

 1869年(明治2年)豊川の水流の変化により井堰からの取水が減少したため、さらに上流の松原村(現豊川市松原町)に宝川の廃渠を利用し幅2間、長さ600間を開削・移築し、1967年(昭和42年)の牟呂松原用水合口頭首工の完成までの約100年間にわたり利用された。
  その後、1996年(平成8年)に豊川総合用水緊急改築事業により牟呂松原頭首工が改築され現在に至っている。 

 

               牟呂松原頭首工

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歴 史

江戸時代の豊川と付近の新田古図面

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豊川に堰を作り無駄なく地域・流域に水を送っている。この分水堰から新城市や牟呂地域の流域に送水しています。

東三河の豊川流域圏と施設

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          ローラーゲートタワー・越流堤と魚道

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河川水量は管理棟で絶えずローラーゲートで調整している。また越流堤より流れているが魚道も確保されて自然環境にも優しい。

 

  豊川左岸を潤す牟呂用水は、大規模な新田開発の用水源として1888年に開削された。難工事であったが、震災、台風水害等に対抗する2つの新技術により完成に至った。その1つ、「自在運転樋」は、用水路と河川との平面交差部に水の重量で放流量を自動調節する堰を設け、洪水時に堰の流失を防ぎ、併せて用水の安定取水を可能としたものである。

 約450年前の開削から度重なる苦難を乗り越えてきた現在、松原用水・牟呂用水は適切な水管理のもと、統合された取水口から約1,600haの水田地帯に恵みの水を送り続けている。

年表と事業

1567年 永禄10年 吉田藩城主 酒井忠次の命により八名郡橋尾村 (現豊川市橋尾町) に井堰を築立。吉田城下の大村村まで引水し、美田をつくった。

1691年 天正10年 未曾有の洪水のため井堰が破壊される。

1693年 元禄6年 新井堰を上流の八名郡日下部村(現豊川市豊津町)に移築し、新水路380間(687m)を掘り、橋尾で旧井堰につなげた。

1869年 明治2年 井堰をさらに上流の(現豊川市松原町)に移築し、新水路は宝川の廃墟を利用して幅2間、長さ600間を開削。改修費1700両のうち700両は吉田藩より補助。残り1000両は松原用水井組24か村が負担

1888年 明治21年 用水利用23か村の総代が牟呂用水との関係(既得権)について県へ陳情

1908年 明治41年 4月13日 水利組合法により松原用水普通水利組合と名称を変更

1932年 昭和7年 松原用水改良事業を実施

1952年 昭和27年4月 土地改良法により『松原用水土地改良区』に名称変更

1967年 昭和42年 牟呂・松原用水合口頭首工完成式

1983年 昭和58年 新規県営かんがい排水事業松原用水地区 着工(幹線水路のパイプライン化)

1990年 平成2年 新規県営かんがい排水事業松原用水第二地区 着工(支線水路のパイプライン化)

1995年 平成7年 新規小規模かんがい排水事業松原用水地区 着工(農振農用地以外のパイプライン化)

1996年 平成8年 緊急改築事業により改築が進められた牟呂松原頭首工新堰が完成 (旧堰撤去を含む)

1998年 平成10年 11月18日 新規県営かんがい排水事業松原用水地区竣工記念式典 松原用水通水430周年記念式典

1999年 平成11年 県営かんがい排水事業松原用水地区 完了

2004年 平成16年 県営かんがい排水事業松原用水第二地区 完了

2005年 平成17年 2月8日 県営かんがい排水事業松原用水第二地区竣工記念式典

2007年 平成19年 小規模かんがい排水事業松原用水地区 完了    

2008年 平成20年 牟呂松原幹線水路の改築工事が完了

2017年 平成29年 松原用水通水450周年記念式典 世界かんがい施設遺産に登録(松原用水・牟呂用水)

住所:愛知県新城市一鍬田字西浦7番地の2

水資源を訪ねて:大原調整池

 東三河豊川水系の水資源を今回新城市富岡にある大原調整池を訪れました。狭隘な山間部から湧き出た水も下流に行くに従って大河となります。この水も放っておけば堤防は決壊し氾濫も起こします。しかし先人達の知恵と苦い経験から水を利水する方法を考え出したのです。

                      ダム堤体ロックフィルダム

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 大原調整池のある新城市及びその周辺は、近くを流れる豊川や支流の宇利川が田畑よりも低い所を流れている為、昔から水を確保することが難しい地域であった。この調整池によって豊川用水の水量が多い時、大原ポンプ場で豊川用水路から取水・貯留する事で灌漑用水・上水道用水を安定して確保する事ができるようになった。 また、大原調整池は「五葉湖」と呼ばれるが、その由来はかつてこの近辺に有った「五葉城」にちなんでいる。

                   大原調整池から見るのどかな田園風景

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高台に設けられた大原調整池から見る新城市の田園風景。写真中央には東名高速道路が通っていて右端にはサービスエリアも向こう側からは、ダムが良く見えるそうだ。

                                     管理棟

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                   管理棟では豊川からポンプにより揚水して池に蓄えている。

 山間の扇状地である新城市の水田には多くの水は送水は出来ない。この高台に設けたダムが無かったら農作物の作付けは難しいに違いない。

                                    堤頂部は管理道路である

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約351mの管理道路がありダム表面が岩に覆われているのがよく分かる。対岸に管理棟が有る。

                                    ダム湖:五葉湖の湖面  

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人造湖だが四季折々の風景を楽しませてくれる。

          湖の片隅にある越流堤と流れ出る用水路

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 蓄えられた水は越流堰から用水路へと送られている。

ダム諸元:大原調整池 愛知県新城市 豊川水系豊川 平成5年完成 ロックフィルダム 堤高さ69.4m 堤頂長さ351m

ダムシリーズ:大野頭首工

                                                                                                                              2021.9.7

 豊川水系宇連川 頭首工とは、河川の水を用水路に引き入れ取水口です。かんがい・上水道・工業用水を目的に建設され、1961年竣工。堤高26m、堤頂長66.2mの重力式コンクリート堰。水源は宇連ダムと大島ダムで、堰は3門ある。高低差が約21mの魚道が設置され、10mごとに魚が休憩できるプールを設けている。一帯は桜の名所で、新緑の時期も美しい。また、付近は凰来峡渓谷内にあり、湯谷・赤引温泉や凰来寺山にも近い観光地となっている。

 大野頭首工:愛知県新城市大野 豊川水系宇連川  昭和36年完成  重力式コンクリート堰 ゲートフラップ付鋼製ローラーゲート×2門鋼製ローラーゲート×1門 堤高26メートル 堤頂長66メートル 

    水門ゲート近影              水門ゲート遠景                

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 大雨による災害時には荒れ狂う宇連川(豊川の上流)も普段は静かでモネの画のようである。湖畔の鏡のような水面は風景を写している。本当に心を和ませるのだ。

 

    堰の上流の河川湖              大野頭首工案内板

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 車の乗り入れは出来ませんが、徒歩の見学は大丈夫です。完成当時は、干魃で農作物の生産には水の確保は農家にとって死活問題であった。また日本の高度成長により工業用水は不可欠であった。                      大野頭首工周辺は湯谷温泉鳳来峡、仏法僧の鳳来寺山、阿寺七滝などの観光地がある。2018年6月、豊川用水の全面通水により約80キロメートル先の渥美半島蒲郡まで自然流下で水を届けている。

 

     分岐下3本の用水路              桜並木の用水路へ

 上流からの水量を調整しながら送る      渥美半島の先端まで長い道のりだ。

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         田原市浸水予想ハザードマップ      田原市

 近年台風やゲリラ洪水と言った集中豪雨が多発しています。水防法対策として国土交通省や愛知県は河川流域の洪水浸水の災害予想図を作成中です。田原市を流れる汐川流域のハザードマップを用意しました。

 浸水害には河川が氾濫して街が水没する「外水氾濫」と、大雨の排水が間に合わなくて街が水没する「内水氾濫」があります。 大規模水害につながるのは河川洪水ですが、内水氾濫はゲリラ豪雨などの局地豪雨でも発生するため注意が必要です。 海がなければ津波は起こらず、崖がなければ崖崩れは起こりません。 しかし大雨による浸水害は、川がなくても発生します。 それは、浸水被害をもたらす原因に、河川の洪水による「外水氾濫(がいすいはんらん)」と、大雨の排水が追いつかなくて生じる「内水氾濫(ないすいはんらん)」の2種類があるためです。

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 最近ではかつて予想も出来なかった大雨による災害が多発しています。水害によるハザードマップは各市町村の長が指定した詳細な図面または国土交通省あるいは県が指定したマップで予測しています。数年前起きた広島県の土砂災害はこれらハザードマップの危険エリアで起こっていますので大変正確な情報だと言えます。青く色濃くなるほど浸水害の危険地域と予測されます。