JR成田線「佐原駅」が有ります。時代を感じさせる駅ですね。「お江戸みたけりゃ佐原へござれと」に誘われて佐原を訪れました。利根川支流の小野川沿いを散策します。ここは水郷の町 江戸時代の街並みがあります。
佐原駅から徒歩10分駅前をほぼ南に行けば諏訪神社が有ります。
佐原公園の伊能忠敬像
伊能忠敬は、延享2(1745)年、今の千葉県九十九里町で生まれましたが、17歳で佐原の伊能家の跡継ぎとなり、以降30年余りこの町で暮らしました。
そして、50歳になってから江戸へ出て西洋流の天文学を学び、55歳のときから、幕府の命によって、何回も測量旅行におもむき、17年もかかって、全国の海岸線を測量して精密な地図をつくりました。
忠敬は測量旅行のたびごとに、その地方の地図をつくり、最後にその総まとめとして日本全図をつくりはじめました。文化15(1818)年、江戸において73歳で亡くなりましたが、日本全図は、弟子たちの協力によってその3年後に完成しました。
日本の国土の正確な形は、忠敬によって、初めて明らかにされました。
この銅像は、忠敬測量中の姿で、大正8(1919)年に建てられました。
台石の文字は、漢学者塩谷時敏が書いたもので、「仰いでは斗象を眼、俯しては山川を書く」とあり、意味は「天体の観測を行って、りっぱな地図をつくった」ということで、忠敬の功績を讃えています。
それから佐原の町へと入りました。川岸には木橋や柳の枝が水面に揺れてとても情緒があります。町の中を幅の狭い道路が横断していて昔ながらの商家町で駄菓子屋や造り酒屋、レトロ調の建物が並んでいます。
旧三菱銀行佐原支店
三菱銀行佐原旧支店の建物で明治13年に建てられた西洋建築です。今では隣の佐原町町並み交流館となっています。
伊能忠敬旧家
伊能家は、代々名主を務める家柄で佐原でも最も有力な商人でした。
忠敬は、17歳で伊能家10代目当主として婿養子で迎えられます。家業は主に酒造業を営んでおり、当時の屋敷絵図には、酒蔵がいくつも並び盛んであったことがわかります。
その後、家督を譲り隠居して勘解由と名乗り50歳で江戸に出て、55歳(寛政12年、1800年)から71歳(文化13年、1816年)まで10回にわたり測量を行いました。その結果完成した地図は、極めて精度の高いもので、ヨーロッパにおいて高く評価され、明治以降国内の基本図の一翼を担いました。
伊能家の門と長屋 造り酒屋の面影を残す
屋敷跡と庭に残る梅の古木
庭にある碑の家訓
旧宅内にある家訓書碑。
第一 仮にも偽をせず、孝悌忠信 にして正直なるべし
第二 身の上の人ハ勿論、身下の人 にても教訓意見あらば急度相用堅く守べし
第三 篤敬謙譲にて言語進退を寛裕ニ諸事謙り敬ミ、少も人と争論など成べからず 意味合い
第一・少しも嘘をつかず、正直にしなさい
第二・どんな人のいうことでも役にたつことや、正しい意見であったら必ず用いて守りなさい
第三・言葉と行動を緩やかにして,万事へりくだって、謹んで、少しの争論もしてはならない
伊能忠敬像と記念碑「この一歩から」
伊能忠敬記念館に残された測量術
旧家屋敷に残されたひな壇や象限儀
小野川を挟んで伊能家正面にある記念館
象限儀:この器械は月や星座などにも天文の測量に用いられた。
象限儀のモニュメントと日本地図の編纂資料
左上の象限儀やを用いて富士山の高さや位置を設定した。当時西洋の測量学を用いて三角測量なども取り入れられている
測量の方法や利用
測量は、田畑の面積を計算する方法として古代から行われてきました。また、都市造りや建築、あるいは天体観測や暦作りに欠かせない技術でもありました。土地の測量は数学の一分野ですが江戸時代西洋列国から日本地図をどうしても手に入れたいものでした。江戸時代シーボルトなども国禁である日本地図などを日本国外に持ち出そうとして発覚した事件。 役人や門人らが多数処刑された。 その後幕末から明治時代西洋文化に遅れを取り戻そうと政府は更に精度の高い測量学を求め陸軍省、海軍省、内務省など競って測量を開始しました。 当時は軍事目的の一端として不可欠でしたが 現在は宇宙航空学も進み人工衛星から電波による測量も一般的になり、航空学、船舶、自動車、電子器具類、農業用機械にまで発達しています。