天竜川佐久間ダムを散策

 休日を利用して天竜川上流佐久間ダムを訪れました。このダムは昭和31年10月に完成しました。着工から10年はかかると言われていた工事をわずか3年間で完成させました。山間の秘境にこれほどのダムを日本人の土木技術は作り上げたのです。まさに猛スピードで完成させました。またその佐久間ダム発電所は日本の戦後の復興と経済の高度成長の第1歩の足がかりとなったのです。

佐久間ダム本体(堤頂部):ローラーゲート方式で扉を上下に開閉する。         

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湖畔より佐久間ダム:ダム本体は155.5m下の湖底に隠れている 

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水力発電所への取水口:発電所に導水するスクリーン              

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佐久間ダムの水瓶:湖は天竜川上流へと向かっている。 

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佐久間ダム天竜川流域の大ダム構想は戦前から始まっていたのですが、戦時中は、アメリカ軍の空襲で多く施設が破壊されてしまいました。戦後の日本は兎にも角にも、電力不足は必要不可欠で経済界は、慢性的な電力不足による停電が及ぼす産業復興阻害や治安悪化を懸念していました。

 その中で中部地方天竜川流域では長野県が治水と発電を目的とした三峰川総合開発事業を1949年(昭和24年)より着手し、下流では農林省により三方原台地や愛知県渥美半島への灌漑を目的とした土地改良事業を計画するなど、多方面にわたる開発が企図されていました。

 このため天竜中流部に大規模なダムを建設する必要が生まれ、白羽の矢が立ったのがダム地点である佐久間地点である。この地点は両岸が険しい断崖でV字谷を形成し、地質も良好であったため大規模ダム建設には理想的な地点であった。

佐久間ダムより天竜川に放流         

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急峻な断崖 (V字谷)が工事を阻んだ。    

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 しかし戦後は中部電力東京電力と共同で開発計画を立てていたが、何れも陽の目を見なかった。佐久間地点が着手に至らなかった原因には、以下の理由がある。

1.ダム地点の両岸は絶壁に近い断崖で川舟以外に到達できる手段がなく、トロッコもっこを利用していた当時の土木技術では施工が不可能だったこと

2.天竜川の流量は特に春季から夏季にかけての流量が膨大である。ダム本体を建設する前段階として川の流れを現場から迂回させる仮排水路トンネルを建設するが、天竜川の洪水期流量に対応できる大口径のトンネル工事を非洪水期(秋季 - 冬季)の短期間に完成させることが当時の土木技術では困難であり、仮に洪水が襲来すれば再建にかなりの時間を要すること。

3.川底に堆積した砂利堆積物が深さ25メートルにも及び、1の要因もあって掘削・除去するのが困難であること。

4.日本発送電分割・民営化後に誕生したばかりの電力会社は経営基盤が脆弱(ぜいじゃく)で、単独で佐久間地点にダムを建設だけの資金調達に耐えられないこと。

以上の理由、すなわち土木技術的な問題とそれを支える資金面の問題が複合し、これを解決しない限り佐久間地点のダム建設は不可能であったことから、何れの事業者も結局構想のままで終わっていた。

しかし電力不足解消と天竜東三河特定地域総合開発計画の根幹として佐久間地点のダム建設計画は避けて通ることが出来なかった。このため政府は1952年(昭和27年)に発足した特殊法人である電源開発天竜中流部の水力発電開発を委ねた。

 ダムのある天竜川は諏訪湖を水源とし、木曽山脈赤石山脈の間を縫うようにして南に流れる。夏季の多雨と冬季の降雪によって年間を通じて水量は豊富であり、かつ中流部の長野県飯田市から静岡県浜松市天竜区、旧天竜市付近に至る約80キロメートル区間天竜峡などを始めとして険阻な峡谷を刻む急流となる。このため水力発電を行う上で理想的な河川であることから、大正時代より水力発電開発の構想が持たれていた。

 大型重機や建設用資材を運搬するための工事用道路の建設に着手した。ダム現場のすぐ近く、約3キロメートルのところに国鉄飯田線中部天竜駅があり、遠方からの運搬は鉄道輸送で賄えたが工事現場は先に述べた通り両岸が絶壁に近い峡谷であるため、右岸の川沿いと左岸の山中に道路を敷設する計画が取られた。しかし一刻も早く工事に着手する必要があったことから、道路が完成するまでは大型重機を川舟に乗せて工事現場まで輸送する策が取られた。

 幅員6.5メートル、全長3キロメートルの道路が完成したことで、重機やコンクリートなどの資材運搬はきわめて円滑に行われるようになり、工期の短縮に貢献する。この工事用道路のうち左岸部の道路は佐久間ダム連絡道路として現在でも利用されている。

運搬道路完成後、天竜川の流路を変更する仮排水路トンネル工事1953年12月より開始されたが、融雪や大雨による洪水被害を回避するために翌年3月までの完成が必須だった。春季以降にずれ込めば最大で毎秒数千立方メートルの鉄砲水が工事現場を襲い、現場復旧に時間が掛かり工期が遅れるためである。しかしアメリカから導入されたガードナー・デンバー社製ドリルジャンボなどの大型重機は1日最大掘削量872立方メートルという当時世界第二位のトンネル掘削となり、ユークリッド社製の大型ダンプカーとキャタピラー製のブルドーザーによる土砂運搬もあいまって予定通翌1954年3月には完了した。

 佐久間ダムの取水口より天竜川沿いの佐久間町発電所に導水

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 D7.0m導水路2門 L=1,180m        

  D=4.8m鉄管路2門 L=147m      

落差約150mの直滑降よりタービンを回す

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 佐久間ダムの平面図、断面図 V型の谷間に155.5mもの高さの水瓶

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 天竜川の河水はトンネルを通って工事現場下流に迂回され、水が無くなった工事現場では川底の深さ25メートルにも及ぶ膨大な砂利堆積物をビサイラス・エリー社製の大型油圧ショベルなどで掘削・運搬。堅い基礎地盤が露出したことでダム本体のコンクリート打設が1955年(昭和30年)1月より開始された。

 このコンクリート打設もウィスコ社製の高速度ケーブルクレーンやコンクリート運搬車などの大型重機が威力を発揮し、1日のコンクリート打設量5,180立方メートルは当時の世界記録として、日本国外の雑誌にも紹介された。

 わずか3年という短期間で完成しているが、その原動力となったドリルジャンボは佐久間ダムにおいて日本で初めて導入され、また日本国外製の大型ダンプカーやブルドーザー、油圧ショベルなどといった重機を始めとした土木の最新技術が日本人技術者に伝えられ、以後急速に日本国内で普及した。

ケーブルクレーン:尾根伝いにケーブルを張りコンクリートを打設した。

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  ドリルジャンボ写真(排水トンネル導水管掘削)       

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大型油圧ショベルショベルと大型ダンプカー

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大型ブルトーザーによる掘削

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 ダムの完成は敗戦の影響を引きずっていた日本国民の注目を浴びた。一例として岩波映画製作・高村武次監督によるダム建設の記録映画『佐久間ダム』がある。上映終了後も各地の学校や企業などから貸し出し依頼が殺到した。 

 しかし栄光の一方で、ダム建設中における労働災害が原因で96名の労務者が殉職している。要因としては豪雨や台風による天竜川の洪水や、険阻な峡谷が建設現場だったことによる転落や落石などであるが、最も問題になったのは安全意識の欠如であった。佐久間ダムより以前の土木工事現場では、本来着用が必須である保安帽、すなわち頭部を守るヘルメットがほとんど着用されていなかった。佐久間ダムにおいても保安帽を被る労務者は皆無に等しく、これが死亡事故増加を助長し国会でも問題になった。これを受けて安全対策向上の指導が繰り返され、労務者全員が保安帽を着用するに至った。工事現場における安全管理対策の先駆けとなった。高度経済成長を支えるという大義天竜川に命を落とした96名の冥福を祈るため、PR館であるさくま電力舘の傍には慰霊碑が建立されている

 

佐久間発電所

 J-power電源開発株式会社 佐久間発電所    最大出力:350000kW  常時出力: 93700kW
 J-power電源開発株式会社 佐久間第二発電所    最大出力:32000kW   常時出力:11500kW
所在地:静岡県浜松市佐久間町佐久間(佐久間発電所)、半場(佐久間第二発電所

佐久間町を望む                

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佐久間発電所(J-POWER電源開発株式会社) 

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佐久間発電所正門

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 佐久間発電所南門 

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飯田線佐久間駅」方面へ             f:id:visutahimesima:20210615151256j:plain 

飯田線豊橋方面次は「中部天竜」へ 

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私も学生の頃、土木工学を学んだ者として、佐久間ダムの散策は特に関心があった。先人達の雄大な構想には畏敬の念を禁じ得ない。又、この急峻な山岳地帯での大がかりな工事は類を見ない。事前測量の三角点や水準点の正確な確認をするだけでも大変な作業である。人工衛星やコンピューターなど全く無い時代である。全く見通しのきかない狭隘な山道を登り下りして目標点(基準点)を正確に図面に落とさなければならなかったに違いない。

 最後に発電所沿いを飯田線を見ていると昔ジェリー藤尾さんが歌っていた「遠くへ行きたい」の歌を口ずさんでいました。