休日を利用して東三河古戦場の長篠城を訪れました。長篠の戦いは歴史上最も知られるところです。私も中学生の頃飯田線に乗って訪れています。
その頃、黒澤明監督、三船敏郎主演の「風林火山」という映画がありました。先輩友人と豊橋市駅前にあった丸物ビルの中の映画館に行きました。豊橋丸物は今はありませんが渥美線の駅前に有り豊橋では有名なデパートでした。
さて「風林火山」は武田信玄公とその豪傑な家臣団、特に牛久保から武田家に使えた軍師山本勘助の生き様を描いた映画でした。
三船敏郎演じる山本勘助は甲州の戦国大名である武田家に仕え近隣の豪族を次々と攻め滅ぼし従えたり領地をどんどん拡大してゆきます。ついには越後上杉謙信との争いになって川中島で対峙する話なのですが、今回は信玄公が没してから家督を継いだ武田勝頼の時代の戦いの事です。この戦は長野県、山梨県、愛知県の広域に広がっています。
私がまず到着したのは長篠城です。この城跡は長篠の戦いでは、一番のキーポイントです。城郭入口左側は大きな土居があります。
この写真みたら歴史学者小和田先生や城郭研究学者千田先生、歴史学者の磯田先生の範疇で得意満面しょう。ま、素人の私が簡略に説明しますと
協力豪族であった奥平信昌の裏切りにあい激怒した武田勝頼は三河へと続く要衝の城をなんとしても奪い取る必要があった。
三河には徳川家康の領国でありこれを攻め滅ぼすにはなんとしても必要な城であった。時に武田軍1万5千の軍に対して奥平氏はわずかに5百人の兵である。死守するにはあまりにも力の差がありすぎるだろう。
案内図を利用で申し訳ないのだが中央に長篠城があります。これを挟むように豊川上流の寒狭川と宇連川が合流して豊川が流れています。奥平軍は奮励するもあまりの武田軍の兵の数の差にじりじりと攻め込まれ籠城戦となった。あと4~5日で兵糧がつきる。天正3年5月15日(1575年6月23日)武田軍は総攻撃を仕掛けた。
そこで本体の徳川軍に救援の伝令を送る必要があった。選ばれたのが鳥居強右衛門である。時に36歳であった。
強右衛門は16日未明夜陰にまぎれ寒狭川より入水し豊川をくだり武田軍の包囲網を突破し一路岡崎へと向かった。片道50kmを1日で走り抜け岡崎城に着いた。織田軍は既に到着していた。徳川家康、織田信長の前で城の危急を訴えまわりの者も感動した。使命を果たして、一同彼の忠義をほめたたえ休むよう労ったが織田徳川両軍3万8千の兵が救援すると聞くや安堵し、すぐさま一路引き返した。しかし長篠城に引き返した時に武田軍の包囲網にかかりあえなく捕らえられてしまった。
武田軍からは「援軍は来ない城を開けよ。武田軍は厚くもてなす」叫べらるるよう説得されて城近くに立った。しかし強右衛門は「援軍はくる。この目で見てきた。あと2,3日堅固に守れ」と叫んだので、対岸の裾野で磔にされた。18日には織田、徳川両軍は陣をしいた。
長篠の戦い絵図
中央左辺りに織田徳川両軍の柵が有り鉄砲隊が見える。
地形図:長篠城は寒狭川、宇連川合流した豊川に挟まれています。
更に南まで大きく陣が広がっていますが桃色札が織田、徳川である。右側の盆地が武田軍の騎馬隊を鉄砲で打ち負かしたところです。
戦の論議は別として、この戦で武田軍の多くの重臣は戦死し大敗してしまいました。武田勝頼はわずかな手勢で甲斐へと落ち延びたそうです。
長篠城本丸跡地
本丸跡地から城跡を眺める。現在は第二東名道路が通りその高架橋が見える
堀の向こう豊川の対岸には武田軍の陣が敷かれていました。正に絶体絶命でしょう。
飯田線は豊橋から長野県上伊那郡の辰野駅を結ぶ路線である。城跡に沿う飯田線は今もなつかしい!
この辺りから長野までは山中を越えて行きます。四季を通じて秘境駅などローカルな風景が楽しめます。
長篠城跡史跡保存館:多くの歴史古文書や武具などが展示されている。
史跡保存館:正面から望む
展示品:武具などは本物です。許可を得て撮影しています。
展示品:刀剣など本物です。許可を得て撮影しています。
展示品:撮影許可出来ないものも数多くあります。是非実際にご覧になって下さい。
何時の時代も戦での勝ち負けよりも犠牲になった人達を思うと空しくやりきれないですね。
豊川 江島橋付近での夕景をぼんやりと眺めてみました。今日も豊川はゆったりと大きく流れています。