水資源を訪ねて:大島ダム

                                                                                                                            2021.9.7 

 愛知県東三河は風光明媚な観光や水資源の要素になる所が多い。田原市から151号線を坂登り新城市に入ると山々の風景に変わる。今の時期、山は青く夏景色だが10月に入ると紅葉が始まる。山奥は都会の慌ただしい雑踏から離れて風の音さえ聞こえる秘境もたまには良いものだ。また奥三河の山々に降った雨は宇連ダムと大島ダムでため、川や用水路によって静岡県湖西市蒲郡市田原市渥美半島の先端まで送り込んでいる。宇連ダムは先回ご紹介しましたが、今回は宇連川河合(飯田線三河川合」)を挟んで東側に分岐する大島川の上流へ行きました。この両ダムによって東三河の水瓶となって居るのです。更に大島ダムよって堰き止められた上流は人造湖になった朝霧湖です。ここは秋、紅葉がとても素晴らしく綺麗と聞きました。訪れた日はコロナの影響か人影も無く水面を風の波紋が幾度も撫でていました。

大島ダムは重力式コンクリートダムです。農業などのかんがいや水道用水として利用されています。

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 豊川用水:東三河地方のメインの水がめ宇連ダムを補佐するため2001年に完成した大島ダムですが完成以来、活躍の場がなかったようです。貯水率80%をわったことがなく大島ダムは無駄だったとも言われていたそうです。しかし3年前の猛暑で夏場にほとんど雨が降らず宇連ダムが大渇水! 大島ダムも貯水率50%ほどに低下しました。大島ダムがなかったら今頃は大変な事なっていました。それでも足らずに佐久間ダムの導水管から補ったこともあります。東三河はまだまだ、水の需要は増えています。生活や産業に不可欠です。 

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訪れたとき水吐から水は流れていませんでした。水が流れていたら迫力満点だったでしょう。しかしなんと言ってもダム景観は落差です。湖底から堤頂まで69.4mもあるのですからもの凄いです。

 堤頂の天端を歩いて見ました。上流側は朝霧湖が静かに広がっています。気持ちがいいので深呼吸しました。空気が爽やかでとても美味しいです。木の葉や、水の香り等々です。さて下を見れば川底に引き込まれるようです。これだけのダムですから減勢工が複数連なっています。余水吐きから導水管で減勢工に放水しているのが分かります。

            堤頂に建つ取水設備の建屋                               減勢工と 余水吐き 

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 堤頂を行けば爽やかな風が通り抜けてゆく。正面はV字型の山がそびえていますが、このような渓谷によくぞ作ったものだと感心します。日本の土木技術は素晴らしい。右側は導水部で急斜面に落下します。左側は静かな湖の景色が広がります。                                         表面取水設備の建屋:天端の脇に、選択取水設備が大きくそびえる。しかし外壁の色が周囲の景観と程よくマッチしていて、とても良いデザインとの評価もあるようだ。 

上方を望めば山の端が連なり鬱蒼と薄暗い風景が望まれます。しかしその風景の中には田や畑もありました。近くに人家もあるのでしょう。

 

ダム諸元:大島ダム 愛知県新城市 豊川水系大島川 平成13年3月完成 重力式コンクリートダム 堤高69.4m  堤頂長さ160m  かんがい 上水道  ダム湖:朝霧湖  
ダムの減勢工:ダムから流下する水のエネルギーを弱め、洗掘等を防ぐ、ダムの直下流に設ける構造物。減勢池を設けている。

 

ダム右岸側の少し上流には管理棟が有ります。山奥にこんな大きな建物があるとすごく安心します。展示室も兼ねてますがコロナ感染拡大防止のため閉館中です。

   管理棟       取水塔                    朝霧湖の眺め

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 ワンポイント程度の和風な広場も有りますがちょっと洒落ています。ここではよくバードウオッチングのポイントだそうです。コノバズク(フクロウの一種:愛知県の県鳥に指定されている)の撮影も出来るそうです。ここから朝霧湖の眺めは最高でしょう!水面が静かなときは山々の風景を写しだし綺麗です。秋紅葉のシーズンには又来ようと思いました。

   貯水貯水大島ダムから豊川を流れ大野頭首工へと流れていきます

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 ダム管理棟の一角に案内板が設置してあります。あまり関心が無いでしょうが我々東三河の人々とって命の水と言っても過言ではない豊川用水の水瓶がここに有り大切なメッセージが記してあります。立ち寄られたら是非一読して頂きたいです。

    朝霧湖に掛かる橋            竣工板:平成13年3月竣工    

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 大島ダム施工計画時にあった大島集落の8世帯の方々の碑です。平成8年に移転された。 移転された世帯の方々の銘板

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ダムシリーズ:宇連ダムを散策

                                  2021.7.20

新豊根ダムの帰り道、宇連ダムに立ち寄ることにした。しかし片道1時間の距離である。山間部は曇りで時折雨とのこと。しかし帰路の途中であるならばと立ち寄ることにした。宇連ダムは飯田線三河川合駅から3km。国道151号線とほぼ交差した地点だ。到着時間は17時だ。まだ間に合う。夏時間だ!ナビに導かれ着いたがゲートは閉まっていた。

 到着時間は17時だ。夏だとゆうのに、少し暗かった。気になるのは写真撮影には暗すぎないかと言うことだ。しかしやるしかない。新豊根ダムまで時間がかかりすぎたのだ。

        宇連ダム本体               案内板

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 愛知県東部、いわゆる「東三河」はかつて干魃に悩まされていた。そこで豊川用水が国営事業として計画され、終戦直後の1949年に事業に着手した。その水がめとなる宇連ダムは1958年(昭和33年)12月に完成し、せき止められた人造湖は「鳳来湖(ほうらいこ)」と命名された。 ダム湖には宇連川だけでなく、天竜川水系の振草川・大入川から取水された水も流れ込んでいる。少雨時にはしばしば干上がることもあり、生活用水確保のために佐久間ダムから導水してしのいだこともあった。豊川水系のダムとしては、下流に1961年(昭和36年)完成の大野頭首工があり、豊川支流の大島川には2001年(平成13年)に完成した大島ダムがある。現在は設楽ダムの建設が計画されており、ダム建設の是非が問われている。佐久間ダムや新豊根ダムとは様式が大きく異なるのは前者は水力発電と治水洪水対策を目的に作られているが、後者はかんがい、用水利用のためだろう。

水資源:豊川用水総合事業  

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宇連川を堰き止め人造湖となったが、下流の渓谷は鳳来峡と呼ばれ、また近くに鳳来寺山がある。これらから、鳳来湖と名付けられた。東三河のみずがめである。豊かな水面は心もなごむし、安心する。

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 ビスタ姫島開発から片道100km山道を概ね2時間、休憩を入れれば3時間の道のりである。23号バイパスを走る時、山奥は雲がかかっていた。山の天気だから大丈夫かなと思いつつも進みました。途中昼食やコンビニで休憩を取りましたが、やはり年のせいかスピードは出せません。151号線途中、金越辺りでナビの異変に気付きました。目的地からどんどん離れて行きます。細かい曲がりで目的地を飛ばした様です。ナビを元に戻しました。30分ほど超過し遅れてしまいました。夏時間は有り難いです。到着は3時過ぎになりました。しっかり晴れて暑いです。

  4時頃まで撮影しました。まだ早い時間だったので帰り道の途中宇連ダムに立ち寄ることにした。5時に到着予定である。現地に到着したら曇りで少々暗かった。撮影出来るかと心配だったがしっかり撮れたので6時頃帰路につきました。          豊橋の23号バイパス前でメーター見たらさすがプリウス燃費が30.5km/Lです。あれほど山道走ったのに、結構燃費が良いのには驚きです。

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プリウスの燃料表示

 

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鳳来湖を望む


 もう夏休みです。山の天気は変わりやすいです。日照時間も短く暗くなるのも早いです。また山間の道路は曲がりが多く、その割に対向車は多いです。家族で行かれることありましたら安全運転を心がけて下さい!それと、水と多少の食べ物は必需品です。でもゴミは持ち帰って処分お願いします。

 

 

宇連ダム:ダム諸元                                                                河川 豊川水系宇連川
目的/型式 AWI/重力式コンクリート
堤高/堤頂長/堤体積 65m/245.9m/273千m3
流域面積/湛水面積 174.5km2 ( 直接:26.3km2 間接:148km2 ) /123ha
総貯水容量/有効貯水容量 29110千m3/28420千m3
ダム事業者 愛知用水公団
 本体施工者 西松建設
 着手/竣工 1949/1958
 ダム湖名  鳳来湖 (ほうらいこ)  

 

ダムシリーズ:新豊根ダムを散策

                                                                                                                     2021.7.20 

今回も休日を利用して愛知県奥三河豊根ダムを訪れました。愛知県は新城市を奥へ々と進んで行く。東栄町を超して国道151号線で豊根村方面へと行くはずだった。しかしナビがおかしい!あまりの曲がりの多さに何処かで外れた。15分か、異変に気付きナビを打ちなおした。予定より送れて金越の別所街道、県道428号古真立津具線にて豊根村へと進路変更。豊根村役場を過ぎれば、みどり湖はすぐだ。山間も川も湖となり明るく開けてきた。ダムまであと10kmほどである。フォトスポットを探すのだがなにせ道が狭いので車を停めるスペースない。多少の幅員が広いロケーションを見つけては撮影した。

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豊根村役場を過ぎると広い川原が広がる  ダムより10km上流にはキャンプ場もある 

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    取水塔:みどり湖より        ダムより3km木陰よりみどり湖
         

ダムとして利用する大入川は天竜川の支流である大千瀬川(おおちせがわ)に合流する二次支流で、長さ30キロメートル・流域面積136.3平方キロメートルの河川である。愛知県の最高峰である茶臼山南麓を水源とする津具川(つぐがわ)と、茶臼山東麓を水源とする坂宇場川(さかうばがわ)が豊根村上黒川付近で合流して大入川となり、ダム地点を通過した後南に流路を変え、途中紅葉で知られる大入渓谷を形成したあと愛知・静岡県境付近で大千瀬川に合流する。合流後の大千瀬川は浜松市天竜区浦川で相川を併せ、静岡県立浜松湖北高等学校佐久間分校(旧・静岡県立佐久間高等学校)付近で天竜川に注ぐ。

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天竜系の中でもドーム型アーチ式コンクリートダムは珍しい。その放物曲線は、とても美しい。コンクリート量も節約、強度も大である。

ダムは大入渓谷の上流部、古真立川との合流点下流に建設された。 ダムに蓄えられた水瓶はみどり湖と名付けられ紅葉がとても美しいそうである。大千瀬川流域は愛知県内でも特に急峻な山岳地帯で、降水量も多く水力発電に適した地域であった。天竜川水系電源開発計画を進めていた電源開発佐久間ダム湖に水没した豊根発電所の代替施設として新たなる水力発電所の建設を計画。1962年(昭和37年)より大入川での調査を開始し、1968年5月に電源開発基本計画新規着工地点として大入川の発電用ダム建設が正式決定された。その反面、大入川は大雨が降るたびに出水し、沿岸部は頻繁な水害に見舞われていた。愛知県は連年の水害を受けて大入川に治水ダムの建設を計画した。結果として電源開発と愛知県は同時期に、同地点でのダム建設を計画することとなり、最終的に大入川の河川管理者である愛知県が1971年(昭和46年)よりダム事業に参加する形で両者の共同事業による補助多目的ダムとしての大入川総合開発事業、新豊根ダム建設が進められた。

その反面、大入川は大雨が降るたびに出水し、沿岸部は頻繁な水害に見舞われていた。特に1968年(昭和43年)8月の台風10号と、1969年(昭和44年)8月の水害では下流静岡県磐田郡佐久間町(現・浜松市天竜区浦川地区が二年連続で壊滅的な被害を受けている。愛知県は連年の水害を受けて大入川に治水ダムの建設を計画した。結果として電源開発と愛知県は同時期に、同地点でのダム建設を計画することとなり、最終的に大入川の河川管理者である愛知県が1971年(昭和46年)よりダム事業に参加する形で両者の共同事業による補助多目的ダムとしての大入川総合開発事業、新豊根ダム建設が進められた。 
 しかし、当の浦川地区住民は天竜川の水害を下流の秋葉ダムが原因であるとして秋葉ダム撤去を訴え、新豊根ダム建設にも反対した。水没世帯が100世帯に及ぶこともあいまって、1962年に調査を開始して以来補償交渉や住民の説得に注力、交渉も妥結し1969年(昭和44年)7月から本格的な建設が開始された。ダム工事は電源開発が施工を担当することになり1972年(昭和47年)に本体工事が竣工、1973年(昭和48年)8月にはすべての事業が完成し運用が開始された。 

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 新豊根ダムは天竜川水系で完成しているダムの中では佐久間ダムに次ぐハイダムである。また型式はダム地点の基礎岩盤が堅固な花崗岩(かこうがん)であることからコンクリート量を節減することで経済性に優れたアーチ式コンクリートダムとした。この型式は天竜川水系においては小渋ダムと新豊根ダムの二つだけである。目的は洪水調節と水力発電である。

 新豊根発電所は、電源開発の大規模な水力発電所。新豊根ダム湖(みどり湖)を上池に、佐久間ダム湖(佐久間湖)を下池に利用している揚水発電所である。地理的にはちょうど東西商用電源周波数の境界近くに位置し、50ヘルツ機を2台、60ヘルツ機を2台、50 / 60ヘルツ両用機を1台、合計5台の立軸フランシスポンプ水車発電電動機を設置。最大112万5,000キロワットの電力を発生させることができる。計画では年間発電電力量を8億7,400万キロワット時と見込んでいるが、大半は佐久間ダム湖よりくみ上げた水で発生させた電力である。新豊根ダム湖に自然流入する水で発生できる電力の量は1億2,700万キロワット時と、全体の15パーセントにも満たない。 
 新豊根ダム湖の水は左岸の取水口より取り入れ導水路トンネルによって2キロメートルほど東に離れた発電所まで送水されている。発電所は人工の地下空間内にあり、長野県道・愛知県道・静岡県道1号飯田富山佐久間線沿いにその入口がある。付近の公園には新豊根発電所の案内板や殉職者の慰霊碑、公衆トイレがある。

新豊根ダム:諸元
河川:天竜川水系大入川 みどり湖
ダム型式:アーチ式コンクリートダム 堤高116.5 m
堤頂長311.0 m 堤 体積348,000 m³
流域面積136.3 km²
湛水面積156.0 ha  総貯水容量53,500,000 m³  有効貯水容量40,400,000 m³
利用目的:洪水調節・発電
事業主体:国土交通省中部地方整備局
電源開発
電気事業者
新豊根発電所
(1,125,000kW)
施工業者熊谷組
着手年1969/竣工年1973

 

   

夏の台風


夏の台風8号は関東の沖合で足踏みした状態だ。なかなか進路も決まらずに進まない。太平洋に大きな高気圧があって進路を阻んでいるのだそうな。でも徐々に進路を北にして今夜から明日未明に東北地方に上陸するそうだ。夏の台風と言えば雨台風と相場は決まっている。概ね中部地方ならばだ。でも東北地方にまともに台風が上陸した事などかつて無かったから、大変な事になるのだろう。

 オリンピック会場も大幅な予定変更せざるを得ないだろう。なんと、まあ今回のオリンピックは、大変な大会になったもんだ。

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天竜川佐久間ダムを散策

 休日を利用して天竜川上流佐久間ダムを訪れました。このダムは昭和31年10月に完成しました。着工から10年はかかると言われていた工事をわずか3年間で完成させました。山間の秘境にこれほどのダムを日本人の土木技術は作り上げたのです。まさに猛スピードで完成させました。またその佐久間ダム発電所は日本の戦後の復興と経済の高度成長の第1歩の足がかりとなったのです。

佐久間ダム本体(堤頂部):ローラーゲート方式で扉を上下に開閉する。         

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湖畔より佐久間ダム:ダム本体は155.5m下の湖底に隠れている 

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水力発電所への取水口:発電所に導水するスクリーン              

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佐久間ダムの水瓶:湖は天竜川上流へと向かっている。 

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佐久間ダム天竜川流域の大ダム構想は戦前から始まっていたのですが、戦時中は、アメリカ軍の空襲で多く施設が破壊されてしまいました。戦後の日本は兎にも角にも、電力不足は必要不可欠で経済界は、慢性的な電力不足による停電が及ぼす産業復興阻害や治安悪化を懸念していました。

 その中で中部地方天竜川流域では長野県が治水と発電を目的とした三峰川総合開発事業を1949年(昭和24年)より着手し、下流では農林省により三方原台地や愛知県渥美半島への灌漑を目的とした土地改良事業を計画するなど、多方面にわたる開発が企図されていました。

 このため天竜中流部に大規模なダムを建設する必要が生まれ、白羽の矢が立ったのがダム地点である佐久間地点である。この地点は両岸が険しい断崖でV字谷を形成し、地質も良好であったため大規模ダム建設には理想的な地点であった。

佐久間ダムより天竜川に放流         

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急峻な断崖 (V字谷)が工事を阻んだ。    

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 しかし戦後は中部電力東京電力と共同で開発計画を立てていたが、何れも陽の目を見なかった。佐久間地点が着手に至らなかった原因には、以下の理由がある。

1.ダム地点の両岸は絶壁に近い断崖で川舟以外に到達できる手段がなく、トロッコもっこを利用していた当時の土木技術では施工が不可能だったこと

2.天竜川の流量は特に春季から夏季にかけての流量が膨大である。ダム本体を建設する前段階として川の流れを現場から迂回させる仮排水路トンネルを建設するが、天竜川の洪水期流量に対応できる大口径のトンネル工事を非洪水期(秋季 - 冬季)の短期間に完成させることが当時の土木技術では困難であり、仮に洪水が襲来すれば再建にかなりの時間を要すること。

3.川底に堆積した砂利堆積物が深さ25メートルにも及び、1の要因もあって掘削・除去するのが困難であること。

4.日本発送電分割・民営化後に誕生したばかりの電力会社は経営基盤が脆弱(ぜいじゃく)で、単独で佐久間地点にダムを建設だけの資金調達に耐えられないこと。

以上の理由、すなわち土木技術的な問題とそれを支える資金面の問題が複合し、これを解決しない限り佐久間地点のダム建設は不可能であったことから、何れの事業者も結局構想のままで終わっていた。

しかし電力不足解消と天竜東三河特定地域総合開発計画の根幹として佐久間地点のダム建設計画は避けて通ることが出来なかった。このため政府は1952年(昭和27年)に発足した特殊法人である電源開発天竜中流部の水力発電開発を委ねた。

 ダムのある天竜川は諏訪湖を水源とし、木曽山脈赤石山脈の間を縫うようにして南に流れる。夏季の多雨と冬季の降雪によって年間を通じて水量は豊富であり、かつ中流部の長野県飯田市から静岡県浜松市天竜区、旧天竜市付近に至る約80キロメートル区間天竜峡などを始めとして険阻な峡谷を刻む急流となる。このため水力発電を行う上で理想的な河川であることから、大正時代より水力発電開発の構想が持たれていた。

 大型重機や建設用資材を運搬するための工事用道路の建設に着手した。ダム現場のすぐ近く、約3キロメートルのところに国鉄飯田線中部天竜駅があり、遠方からの運搬は鉄道輸送で賄えたが工事現場は先に述べた通り両岸が絶壁に近い峡谷であるため、右岸の川沿いと左岸の山中に道路を敷設する計画が取られた。しかし一刻も早く工事に着手する必要があったことから、道路が完成するまでは大型重機を川舟に乗せて工事現場まで輸送する策が取られた。

 幅員6.5メートル、全長3キロメートルの道路が完成したことで、重機やコンクリートなどの資材運搬はきわめて円滑に行われるようになり、工期の短縮に貢献する。この工事用道路のうち左岸部の道路は佐久間ダム連絡道路として現在でも利用されている。

運搬道路完成後、天竜川の流路を変更する仮排水路トンネル工事1953年12月より開始されたが、融雪や大雨による洪水被害を回避するために翌年3月までの完成が必須だった。春季以降にずれ込めば最大で毎秒数千立方メートルの鉄砲水が工事現場を襲い、現場復旧に時間が掛かり工期が遅れるためである。しかしアメリカから導入されたガードナー・デンバー社製ドリルジャンボなどの大型重機は1日最大掘削量872立方メートルという当時世界第二位のトンネル掘削となり、ユークリッド社製の大型ダンプカーとキャタピラー製のブルドーザーによる土砂運搬もあいまって予定通翌1954年3月には完了した。

 佐久間ダムの取水口より天竜川沿いの佐久間町発電所に導水

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 D7.0m導水路2門 L=1,180m        

  D=4.8m鉄管路2門 L=147m      

落差約150mの直滑降よりタービンを回す

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 佐久間ダムの平面図、断面図 V型の谷間に155.5mもの高さの水瓶

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 天竜川の河水はトンネルを通って工事現場下流に迂回され、水が無くなった工事現場では川底の深さ25メートルにも及ぶ膨大な砂利堆積物をビサイラス・エリー社製の大型油圧ショベルなどで掘削・運搬。堅い基礎地盤が露出したことでダム本体のコンクリート打設が1955年(昭和30年)1月より開始された。

 このコンクリート打設もウィスコ社製の高速度ケーブルクレーンやコンクリート運搬車などの大型重機が威力を発揮し、1日のコンクリート打設量5,180立方メートルは当時の世界記録として、日本国外の雑誌にも紹介された。

 わずか3年という短期間で完成しているが、その原動力となったドリルジャンボは佐久間ダムにおいて日本で初めて導入され、また日本国外製の大型ダンプカーやブルドーザー、油圧ショベルなどといった重機を始めとした土木の最新技術が日本人技術者に伝えられ、以後急速に日本国内で普及した。

ケーブルクレーン:尾根伝いにケーブルを張りコンクリートを打設した。

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  ドリルジャンボ写真(排水トンネル導水管掘削)       

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大型油圧ショベルショベルと大型ダンプカー

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大型ブルトーザーによる掘削

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 ダムの完成は敗戦の影響を引きずっていた日本国民の注目を浴びた。一例として岩波映画製作・高村武次監督によるダム建設の記録映画『佐久間ダム』がある。上映終了後も各地の学校や企業などから貸し出し依頼が殺到した。 

 しかし栄光の一方で、ダム建設中における労働災害が原因で96名の労務者が殉職している。要因としては豪雨や台風による天竜川の洪水や、険阻な峡谷が建設現場だったことによる転落や落石などであるが、最も問題になったのは安全意識の欠如であった。佐久間ダムより以前の土木工事現場では、本来着用が必須である保安帽、すなわち頭部を守るヘルメットがほとんど着用されていなかった。佐久間ダムにおいても保安帽を被る労務者は皆無に等しく、これが死亡事故増加を助長し国会でも問題になった。これを受けて安全対策向上の指導が繰り返され、労務者全員が保安帽を着用するに至った。工事現場における安全管理対策の先駆けとなった。高度経済成長を支えるという大義天竜川に命を落とした96名の冥福を祈るため、PR館であるさくま電力舘の傍には慰霊碑が建立されている

 

佐久間発電所

 J-power電源開発株式会社 佐久間発電所    最大出力:350000kW  常時出力: 93700kW
 J-power電源開発株式会社 佐久間第二発電所    最大出力:32000kW   常時出力:11500kW
所在地:静岡県浜松市佐久間町佐久間(佐久間発電所)、半場(佐久間第二発電所

佐久間町を望む                

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佐久間発電所(J-POWER電源開発株式会社) 

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佐久間発電所正門

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 佐久間発電所南門 

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飯田線佐久間駅」方面へ             f:id:visutahimesima:20210615151256j:plain 

飯田線豊橋方面次は「中部天竜」へ 

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私も学生の頃、土木工学を学んだ者として、佐久間ダムの散策は特に関心があった。先人達の雄大な構想には畏敬の念を禁じ得ない。又、この急峻な山岳地帯での大がかりな工事は類を見ない。事前測量の三角点や水準点の正確な確認をするだけでも大変な作業である。人工衛星やコンピューターなど全く無い時代である。全く見通しのきかない狭隘な山道を登り下りして目標点(基準点)を正確に図面に落とさなければならなかったに違いない。

 最後に発電所沿いを飯田線を見ていると昔ジェリー藤尾さんが歌っていた「遠くへ行きたい」の歌を口ずさんでいました。   

 


  

 

趣味の園芸:夏野菜は美味しいが作業はきつい!

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 夏野菜を作りましょう!家庭菜園は健康の源だ!

だがしかし、
 この時期夏の暑さと梅雨の雨で体調がくずれやすいから注意しよう。コントロールもしづらい。今日朝5時起きで草取りしましたが、あっという間に伸びてしまって困難です。

除草剤散布出来るところなら良いのだけれど家庭菜園など夏野菜の付近は手で取らないとどうにもならない。こういう仕事は若い人達は嫌がる。

新しく新居を得た家族もなかなかやらない。すごく簡単に思っているのだけれど、行動にはならない。中には買った方が良いと思う人が大多数だ。まれに貰った方が良いなどど、ふざけた輩もいるが論外だ!

 まあこの暑さの中での作業での収穫は骨折り損かもしれんなあ。とも思うがややもすれば全部人頼みで、なにもしないことになってしまう。スーパーへ行けば、冷蔵庫の中にあるからくらいの感覚になっている。

 要は食物に対して感謝の気持ちがうすれてしまっていること。お金を出せば何でも口に入る社会だから豪華だろうと多かろうと簡単に捨ててしまうこと。もったいない話だ。

 我々戦後に生まれて食糧難だった世代は、食べ物を大切にする。食べきれないものを注文することは絶対しない。

 料理番組やネットなどで豪華な料理を載せているのだが、現代人の感覚ははどうなっているのだろうかと首を傾げます。世界では食糧難の国もあるのです。たまたま日本は経済的に恵まれていますが、食物のほとんど輸入に頼っています。

 例えば、自分で苦労して作った野菜を人が簡単に捨ててしまったらあまり気分良くないはずです。

宗教的とまではいわないけれど、頂きますと心の中でとなえたらもっと食べ物を大切にすると思います。

コロナの関係でのはけ口が少ないから豪華な料理に向くのでしょうか。

 暑い々と思い、ひとり孤独な趣味の園芸になりそうです。

 

姫様街道の散策

東海地方も入梅に入り雨天が続きます。5月19日休日と雨模様なので浜松市の氣賀関所と龍潭寺を訪れました。4年前NHK大河ドラマおんな城主 直虎」の舞台になった地です。再度訪れましたが今はひっそりとしています。氣賀の関所は浜松市北区役所の真ん前にありますのですぐわかります。以前に新居の関所を訪れたとき東海道の3大関所と言われたと所ですがこちらは姫街道(本坂街道)と呼ばれておりました。

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     関所東側 冠木門   関所入口です

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氣賀の関所看板 三つ葉葵ご紋の門

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番所 この建物の左側から改めがありました。

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関所の管轄は旗本気賀近藤氏の領内であった。旗本の家老が参内した。

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 吟味役は平番、番頭役人が執り行っていたf:id:visutahimesima:20210519152402j:plain

 本番所の正面には向番所が有り女改めをした。

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西側には町木戸門があり宿場町として栄えた。f:id:visutahimesima:20210519154031j:plain

現在の地図と異なり上が南側となります。東側も細江町です。浜名湖引佐細江港に流れる大きな河川、都田川があり簡素な曳舟橋が有ったようだ。川を渡ればすぐ前が関所である。関所を難なく通れば大きな宿場町に入れる。しかしこんな山奥にこれだけの宿が要ったのであろうか

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 徳川吉宗が八代将軍になったことで2年後に母君の浄円院を江戸に呼び寄せた。享保3年に浄円院は紀州を経ち江戸に下向した。東海道の赤坂宿に宿泊、翌御油から東海道を離れ本坂通(姫街道)を進みました。お供が8000人とも10,000人とも言われる大規模なものであった。行列の長さは2里(4km)も有ったそうである。時の宿場はこれを受け入れる余裕もなく宿場役人も苦心されたそうです。その当時これだけ大きな宿場町となった。

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そして次に訪れたのが井伊家ゆかりの龍潭寺です。4年前NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」の舞台となった地です。

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柴咲コウさん演じる井伊直虎の生き様や取り巻く人々、支配者今川義元に仕えながらも

三河の徳川家(当時はまだ松平家)との狭間にあり幼少時代から青年期に戦国時代の習わしで多くの人達を失ってしまう。今川家の謀略に遭い井伊家の後継者さえもたたれ女性であっても國のため人生を家に捧げなければ途絶えてしまう悲しみも背負い男勝りに生き抜いた直虎を見事に演じたと思いました。

その井伊家の菩提寺である龍潭寺を歩いて見ました。

小雨が降る中新緑が一段と映えていました。山門です。

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龍潭寺の玄関です。青モミジのしだれが古刹、名刹を偲ばせる

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中の庭園は4年前に訪れたときのものです。

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この庭園は、小堀遠州の作と言われています。すべて計算されて作られているのに

そうとは思えない。

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今は少し記憶に薄いのですが亀が居たり鶴が居たりとても縁起が良いそうです。四季折々の花々が楽しませてくれるでしょう。

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何れの方面から眺めても美しさに変わりはありません。またずーっと眺めていれば、気が休まるし落ち着きを取り戻します。それが禅の心でしょうか。

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園路でナツツバキを見つけました。美しいです。

満開なのですが雨で花を散らせています。